静けさに目を閉じる。
 耳をすませば、その静寂の中に、まるで秘め事を伝え合うのような風のささやきがあることを、和仁はひとりで過ごすようになってから初めて知った。風たちの会話を聞くことで心が静まり返ることも、その風の向こう側に、空の高いところを飛ぶ鳥の鳴き声が響き渡っていることも。
 本当は、きっと、最初から好きだったのだ。魂は、悠揚な日々を求めていたのだ。権威だの官位だのにこだわり、己の生とせわしない日々を恨みながら過ごすよりも、泣きたくなるほど優しい陽光のもとで、風を感じ、草木を愛で、歌を詠み、好きなものたちとたわむれながら、健全に生きることを希っていたのだ。
 今更、どんなに後悔しても、懺悔をしても、この身体に染みついた穢れが消えるまでには、長い長い時間がかかるだろうが、それでも、遥か昔から存在する世界の優しさと美しさを吸収して、己の愚かさが少しずつ光に解けて浄化されていくさまを想像することをやめられなかった。

「和仁さん、こんにちは」

 聞きなれた声がすぐそばで聞こえて、和仁はふと瞼を上げた。すぐ左隣に、とても澄んだ気配を感じる。これほど清らかに感じるのは、己が未だ穢れた存在であるからに違いない。
 花梨は、ほとんど和仁と肩が触れ合う位置に座り込んだ。

「今日は、いい天気ですね」

 和仁は、花梨の横顔を見た。長い睫と白い肌の、優しい顔立ちの少女。いつからだろう、彼女の姿にとても惹かれるようになったのは。それまで和仁は、誰かを特別に意識したことなどなかった。自分ではない他の人間は、大した価値もないと思っていた。世界を憎んでいたから、その世界に属する他人もまた憎悪の対象だった。けれど結局、世界を憎むということは、自分すら否定することと同意であり、そのことに気がついたとき――いや、本当は、初めから分かっていたはずなのだろうが――自分が生きる意味などないと、そう感じた。卑屈な考えで満たされた自分は、憎悪する他人よりも、ずっとずっと卑しかった。

「和仁さん、今日は顔色がいいですね」

 こんな不甲斐ない男は、ひとを愛してならないとまで思った。だから、目の前にいる少女の姿を美しいと感じ、胸の内で称賛していることが、どうしようもなく嫌で、和仁は、彼女が来るたび心を封印しようと必死だった。

「昨日ね、お庭に猫がいたんですよ」
「神子」

 なあに?と振り向く花梨を無表情で見据え、和仁は問うた。

「お前は、私に、ひとを愛する資格があると思うか」

 質問に面食らったらしく、大きな目が何度も瞬いている。翡翠色をした瞳に自分の姿が映っているのを、和仁はどこか不思議に思う。本来ならば、出会うこともなかった互いだろうに。彼女は「自分には居場所がない」と言うが、一体どこから来たというのだろう。

「ひとを?」
「ああ」
「愛する資格が……ないと、思っているんですか、和仁さん」

 花梨は急に眉を寄せ、目を伏せた。和仁はそんな姿を冷静に眺めやり、淡々と言葉を紡いだ。

「私は、ない、と思っている」
「ないわけ、ないじゃないですか」
「穢れをまき散らし、多くのものを傷つけすぎた。本当ならば、命をもって償わなければならぬほどに」
「やめてください!」

 花梨の小さな手が、和仁の袖をきゅっと掴む。その動作にすら、和仁は心動かされなかった。いつからだろう、どこか感情が乏しい感じがし始めたのは。花梨がそばにいることは、とても嬉しいことなのに、罪悪感が付きまとって自分が喜びを抱くことを拒絶してしまう。楽しい、嬉しいという感情を持つこと自体が許されない気がして、喜怒哀楽を遠ざけようとしてしまう。人間として悲しくて虚しい癖だろうが、やめられなかった。やめてはいけなかった。

「お前は、罪人を赦すのか」

 己を憎む冷たい言葉に、花梨の目からすっと涙が流れた。そんな可哀想な姿を見ても、和仁は動揺しなかった、まるでこの展開を以前から予測していたかのようだった。

「私の永遠の懺悔に、この先も付き合い続けるというのか」

 心優しい少女に同情されることもまた、和仁には、苦痛でしかなかった。

「お前が私を赦したところで、世は私を赦さぬだろう」
「私は、和仁さんのそばにいたいだけなんです」

 こぼれ落ちる涙を何度も手で拭いながら、花梨は震える声で吐き出した。

「優しい和仁さんのそばにいたいだけなんです」
「私は優しくなどない」
「和仁さんは私が嫌いなんですか」

 いつか言われるだろうと思っていた言葉に、和仁は目を伏せた。今ここで嫌いと告げれば、花梨は二度とここに来ることはないだろう。悲しい別れとなるだろう。そうすることが花梨のためだ。遠ざけなければならない、自分に少しでも正の感情を抱かせるものは、全て。

「ああ」
「嘘を言いなさるな」

 背後から低い声がした。振り返ると時朝が立っていて、苦々しい面持ちで和仁を見下ろしていた。

「和仁さまは、神子殿が来ると、いつも心穏やかな顔をされているではありませんか」
「時朝……なぜ、口出しをする」

 青ざめ、従者を睨む。しかし本当は、時朝にさえ懺悔をしなければならない身なのだ。時朝をひどい形で利用したのだから。
 あまり傲慢な態度を取りたくはなかったが、今すべきことは、花梨を穢れた自分から離れさせることだった。

「神子の気が、私のせいで穢されていくことを知ってのことか」
「神子殿の持つ清らかな気が、和仁さまの気に呑み込まれることはありません」
「馬鹿な。そもそも罪人のそばにいることが問題なのだ。
 神子、私のせいで、お前に良からぬ噂が立つだろう。京の者に不信感を抱かれれば、この地で生きていくことはできぬ。手遅れになる前に、この邸から早々に去るのだ」
「私には」

 花梨が遮る。

「帰る場所がないんです」

 それは驚くべき告白だった。目をまるくして花梨を見る。彼女は膝の上で両手を握りしめ、肩を震わせながら声を絞り出した。

「自分の家に、帰れないんです」
「……なぜ」
「分かりません……」

 花梨は顔を上げ、悲痛な表情をしたまま庭を見やった。

「この地で他に何かすべきことがあるのかしら……」

 そのかすかな呟きは、和仁や時朝ではない、別の誰かに語りかけるものだった。
 涙の気配が残る大きな瞳に映るものが自分ではなくなったとき、和仁は、漠然とした不安を覚えた。花梨は毎日、和仁のもとに来て他愛ない話をして帰るが、すぐそばにいながらも、いつもどこか遠く感じるのだ。同じ姿かたちをしているのに、まるで自分とは違う次元に生きている人間のようで、彼女自身が神か、それに近いものではなかろうかと、和仁は心のどこかで疑念を持っていた。それを意識してしまえば、もっと隔たりが強くなる気がして、口に出すことも考えることも避けていたが、このようにして不意に遠い目をするとき、彼女がどこかへ行ってしまいそうな気がして、妙な焦燥感を覚えるのだった。
 今も、空気中に漂う光の粒子の中に解けてなくなりそうで、和仁は、無意識に花梨の腕を掴んだ。

「神子。お前は一体どこから来た」

 花梨は前方を見つめたまま答えなかった。
 どこから来て、どこへ帰るのか、それは重要なことではなく、花梨を想う一族の者たちがいるのならば、彼女をそのもとへと返してやらなければならない。すでに星の一族に対して何度か忠告していたが、もともと和仁という男が信用されていないこともあり、彼らは「花梨の意思に従う」と言って聞く耳を持たなかった。もしかしたら、類まれな力を持つ花梨を手もとに置いておきたいだけなのかもしれない。
 帰るべき地に戻ることができないから、やむを得ず京にとどまっているのだとしたら、なおさら和仁に寄り添う必要もないだろう。

「どうしても帰れぬというのならば、帰るための手段を私や時朝が探してやる」
「ごめんなさい」

 唐突に謝られ、和仁は混乱した。

「なぜ、謝る?」
「私こそ、和仁さんと同じく、罪深い人間だと思います。私は、自分がひとりぼっちで寂しいから、同じように寂しい思いをしている誰かのそばにいたかったんです。自分の寂しさを紛らわすために、和仁さんのそばにいようとした……」

 それはすなわち、相手は和仁でなくてもよいということだ。花梨がそう言ったことに少し傷ついたが、今告げられたことは彼女を説得させるための根拠になる。

「お前のそばにいてくれる輩は、他にも大勢いるだろう。泉水や彰紋も高貴な血筋だ、お前の面倒を見ることくらい」
「みんなには、みんなの生活があったの。私たちは本来、出会うはずがなかったから、京が救われたあと、みんな元の生活に戻っていきました。私はみんなの邪魔をしたくない……」
「邪魔だと……神子は、八葉から慕われていたではないか」

 そのことに嫉妬すら覚えたのだ。変わった服装と髪型の、まるで京の女性だとは思えない少女が、強力な力を持つがゆえに称賛され、人々を救い、皆から敬われた。嘘偽りの賞美を本物だと信じて振る舞っていた和仁とは違う。

「それに、別に八葉でなくとも」
「和仁さま」

 黙って二人の会話を聞いていた時朝が口を開いた。

「神子殿は、和仁さまを求めておられる。八葉の者たちにも、各々の都合があるのでしょう。彼女は居場所がないがゆえに苦しんでいる。あなたの御前で、のびのびと過ごすことができるのならば、彼女が帰れるようになるまで神子殿の希望を叶えてさしあげることも、我らの務めとなるではないでしょうか」
「時朝……」

 まだ言うのかと、和仁は呆れて溜息をついた。

「問題は、神子が我らと接触することで、京で生きにくくなるのではないかということなのだ」
「我々や星の一族がお守り申し上げればよいのです」
「簡単に言うな。私やお前が神子を保護するにも限界がある」
「私は守ってもらおうと思っているわけではないんです」

 今度は花梨が言う。和仁は、先ほどから腕を掴んだままでいることにようやく気がつき、はっとして手を除けた。花梨は長い睫を上げ、目の前の和仁に真剣なまなざしを向けた。

「京を救っても帰れなくて、寂しくて、どうしていいか分からなくて、そんな時に思い浮かんだのが和仁さんだったんです」
「私? なぜ私なのだ」
「分かりません。でも、すごく気になったから……」

 花梨は何気なく口に出したつもりなのだろうが、意味深な言葉に、和仁の胸はどきっと打った。なんとなく気になるという、はっきりしない感覚で、和仁を選ばれても困ると返そうとしたが、なぜか口ごもって言うことができない。

「……」
「歳も近いし、優しくて……この前の山登りだって楽しかった。一緒にいると安心するのは、和仁さんがとても傷ついているからで、傷つく気持ちが分かる人は、きっと私を故意に傷つけることもないって……そんなずるい考え方で、和仁さんのそばにいたんです。私の方こそ、とても愚かだわ。それでも、近くにいたいって思ったの」

 だんだんと顔が熱くなってきた。これでは、まるで愛の告白のようではないか。どう返せばよいものかと視線をうろうろさせ、ふと時朝を見ると彼には薄く微笑まれてしまい、悔しさを覚えて和仁はすっくと立ち上がった。

「すまないが、少し考えさせてくれ」

 和仁さん、と不安げなまなざしが和仁に向けられる。翡翠色の大きな目に、和仁は羞恥を覚えて、とっさに視線をそらした。

「神子、私は、お前がそばにいて迷惑だとか嫌だとか、そういうことを言いたいのではない。お前が厭がるのを、無理に追い返そうとしているわけではない。私だって……私だって、お前が他愛ない話をしにここに来て、私の気を紛らわせてくれるのが心地よかった」
「和仁さん?」
「すまぬ、考えさせてくれ。時朝、あとは頼む」

 花梨の呼び止めを振り切り、和仁は足早に自室へと戻った。向こうの方で、時朝と花梨が何やら話をしている声が聞こえてきたが、何を言っているのかは分からない。
 疲労からか怠さを覚え、ずるずると柱に寄り掛かった。手のひらで顔を触ると、信じられないほど熱かった。胸が高鳴る。頭の中が少女の言葉でいっぱいになる。自分を戒めるための数々の罪の意識が、今ばかりは戻ってこない。どうしたことだろう。
 外から緩やかな風が吹き、そっと頬を滑るのが心地よくて、涙が出そうだった。